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サンフランシスコ生活メモ


by kana99
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2017年

新年明けましておめでとうございます。

気がつけば、このブログを10か月も放置してしまいました。

なんということでしょう。

反省を込めて、元旦に書いておきたいと思います。

去年は家族の病気などあり、後半はぱっとしませんでしたが
長い人生、そういう時期もあるでしょう。

新年仕切り直しで頑張りたいと思います。

今年もよろしくお願いいたします。


佳奈子
# by kana99 | 2017-01-02 02:18 | Life

Sonoma Valley

去年のナパバレーに続いて最近はソノマの方にも行って参りました。
ナパバレーもいいけど、ソノマもこじんまりした不雰囲気で好きです。
着いたのが若干遅かったので、ワイナリーには行かず、ダウンタウンのテイスティングルームをハシゴ(笑)
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まだ日が高いうちからホロ酔いになれる幸せを噛み締める〜
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カルパッチョをつまみに。
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次の日はまっすぐ帰るのも勿体無いので、
山を越えて海まで出てBodega Bayへ。

お目当はもちろん
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BBQオイスター!

前回食べたのと全く同じメニューですが、
クラムチャウダーとフィッシュタコも!
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Weekend Getaway 満喫しました🎵

のどかな景色を眺めながら
また賑やかなCityに帰って来ました。

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# by kana99 | 2016-02-26 10:05

近況

父の人生後半を書かないまま、つい時間が経ってしまい
いつの間にか尻切れトンボになってしまいました。
このままではパパも成仏できますまい(笑)

また改めて続きは書くとして。

お出かけの記録などを。

去年の秋ですが、中学からの同級生のお嬢さんがサンフランシスコを訪ねてくれました。
小さい時はロンドンで過ごし、中学高校をドイツで過ごした彼女は3ヶ国語を完璧に話す優秀な人で、まさにああいう人をグローバルな人と呼ぶのだなあと思いました。

彼女がナパバレーを見てみたい!
と言うので1日ナパバレーをご案内。

もちろん私におんぶに抱っこではなくて下調べも万端。さすが。
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Yountvilleのレストランもちゃんと選んでおいてくれました。
そこで食べたピザはアメリカで食べたピザの中で一番美味しいと思ったほど。
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最後にFrench Laundryも。
もちろん外から見るだけ。
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私は運転手だったのでテイスティングしなかったけど、ワイン数本お土産に買ってサンフランシスコに帰還しました。
お天気も良くて、とても喜んでくれて私も娘ができたみたいで楽しい1日でした。
# by kana99 | 2016-02-26 09:47 | Life

父の人生 2

昭和30年台に入って、日本は高度成長期を迎えます。
消費が伸び、経済の発展がうなぎ上り。
その中で、父は典型的なモーレツ社員になりました。
何しろ、なんでも首を突っ込んでなんでもやりました。
当時の重役や社長たちから面白い社員がいると目をかけられ
トントン拍子で出世。平社員から総務部長まで一気に駆け上がり
しかも30そこそこで部長職は当時のスピード出世記録だったそうです。

「飛ぶ鳥も落とす勢い」というのでしょう。
あとで母が「人には言わなかったけど、パパ「俺社長になる」って言ってた」
と懐かしそうに言っておりました。
しかし、その約束は果たせませんでした。少なくとも新聞社では。

昭和40年に入り、だんだんと業績の伸びが鈍くなってきます。
そうなってくると人は責任を誰かに転嫁したくなります。
社内では派閥争いが起こります。
父を可愛がってくれていた当時の社長が失脚し、別の派閥から社長が選任
され、前社長子飼いの社員たちは冷遇されるようになります。
父などはまさに「出る杭」おとなしくなんてしていませんから、反発も大きい。
事実上、これ以上の出世の道は絶たれたと判断したようです。

ちょうどその頃、私が中学を受験することになりました。

小学校6年生の2月。受験の日の前日に家族会議招聘。
パパが言います。
「もし明日の試験に佳奈子が受かったら、俺はその足で会社に行って辞表
出してくる。」
「もし、落ちたら・・・みんなで広島いこっ!」でした(笑)

どうやら、内示で広島転勤が決まっていたそうです。左遷です。

12歳の私は一家の運命を背負って、受験に臨みました!!

そして、私は見事合格!
合格発表を見たその足で、父は23年間勤めた新聞社を本当に辞めてきました。

これからお金がかかるっていうのに、どうするの!パパ。

1ヶ月後、退職金を元手に父は自分で会社を興しました。
いわゆる脱サラです。

当時、脱サラして成功する確率はほんの数パーセントと言われていて
周りの人は「絶対無理」と口を揃えて言っていましたが、
その父が興した小さな会社はもう創立40年を迎えます。

独立してからの父は、一言で言ってすごかったです。
モーレツ社員がモーレツ社長になりました。
朝から夜中まで週末も休まず働いていました。
印刷を請け負う商社でしたから、納期が間に合いそうもないと
下請けの工場に行って一緒に作業し、会社に持ち帰って夜中まで
働いていました。お客さんの信用を勝ち取るのに必死でした。
私も下校途中に立ち寄って、夜遅くまで手伝うこともありました。

昔から趣味もほとんどなく、趣味が仕事な人でしたから
疲れたとか、やりたくないとか聞いたことがありません。
働いていればハッピー♪ だったのだと思います。


つづく









# by kana99 | 2015-10-18 04:30 | Life

父の人生

久しぶりでしかも突然ではありますが、私の父は先月9月13日に亡くなりました。

85歳でした。

85歳!って日本人の男性にとっては長寿ですよね。
最近、50台、60台の人たちの訃報がよく聞かれる中、昭和一桁生まれの男子に
してはよく生きたほうだと思います。

昭和一桁生まれの人で、平穏な人生を送った人なんて多分いない。
父も困難の多い、波乱の人生だったと聞きました。
そのせいか、ちょっと性格がひねくれているところがあって、私は幼心に
「私も似なきゃいいなあ」と願っていましたが、似たかも(笑)

しかし、そんな性格でも真面目で優しく人の面倒をよく見る人でしたから
人間関係に恵まれて、よく生きられたほうだと思います。

私が今まで聞いた限りで、父の人生を振り返ってみたいと思います。


父、健一は昭和5年4月17日(戸籍上)現在のサハリン、当時の樺太で生まれました。
祖父が運送業を営んでいたため、その関係で当時家族は樺太にいたそうです。
なんと10人兄弟の末っ子。6男です。
年の離れた兄たちは既に成人だったため、祖母の実家のある青森県弘前市付近に
住んでいて、たまたままだ小さかった父だけが両親に連れられて樺太や北海道に
移り住みました。でも、これが父にとっては不幸なことで
どこへ行っても転校生。その土地の言葉がうまく話せない。
だからいじめられる。
弘前に帰っても、ちゃんとした津軽弁しゃべれない。
しかも、負けず嫌いだから勉強は頑張って成績がよくなったら、生意気だと
余計にいじめられる・・・性格がゆがむはずです(笑)
家では超教育ママの祖母に成績表を見せて、「乙」が一個でもあると
ぶっ飛ばされたそうです!お、おばあちゃん・・(怖)
*当時の成績は「甲乙丙丁」評価です。

その後、旧制弘前中学に入学。その頃から長兄たちに「健坊は東京の大学へ行け」
と言われていて、本人も田舎を出て東京へ行くことだけを夢見ていました。

そんな中、あの太平洋戦争勃発。

田舎にいたので食べ物は困らなかったそうですが、終戦後学制が変わり新制の大学を
受けることになりました。旧制中学卒業では年が足りないので東京の高校へ編入。
そしていよいよ大学受験。

津軽から出てきた健一少年はどの大学を受けたか!?

東大でした(笑)

ま、そのあたりが世間知らずというか、おめでたいというか・・・

受験当日、東大の答案用紙の文字がすごーく小さく見えたそうです。
その時「これはだめだ」と悟ったとか(笑)

当然不合格。

仕方なく、滑り止めの明治大学を受験したら答案用紙の文字がやけに
大きくはっきり見えて「こんなに違うんだー」と感心したそうです。

というわけで、一応めでたく明治大学工学部電気科に入学し
晴れて念願の東京の大学生となりました。

しかし、実家では祖父が事業に失敗し夜逃げ状態。
一家離散。戦争から帰った長男のみ存命でしたが、次男三男は病気や事故で既に
他界しており、いてもいなくても同じようだった六男に仕送りするお金などありません。
3畳間の下宿代、授業料、食費。すべて自分で働いて捻出しなければなりません。
まだ戦後すぐのころですから、そんなに割のいいアルバイトがあるはずもなく
安い石鹸を仕入れてきて道端で売ったり、なにしろありとあらゆることをやったそうです。
でも、当時そういう苦学生は父だけじゃなく、周りにもたくさんいたそうです。
若いってすごいことですね。

大学では電気科で発電の勉強をしていたそうです。
工学部の教授に気にいられて、この教授とはのちのちまでずっとお付き合い
頂くのですが、その先生の助手の仕事をしたりしながら何とか卒業できました。

次の困難は就職。

昭和28年、就職難のために採用してくれるところならどこでもいい!状態
だったようですが、父を拾ってくれたのは某工業新聞社でした。
工学部卒で新聞社・・・ま、いいか(笑)一応工業新聞だし。
しかも配属は総務。

とにかく社会人になった健一青年は一生懸命働き始めます。
スーツを買うお金がなかったので、しばらく学生服で出勤したところ
上司が気の毒がってお金貸してくれたとか(笑)

入社して1年後、体調が悪いことに気がつきます。
東京に出てきてから、何しろろくなもの食べていません。
社会人になってからも、朝ごはん抜き、昼は社食で定食。夜は
やす~~い焼酎かなにか一杯飲んで寝ちゃう生活。
病気にならないはずがありませんね。

会社の診療所に行ってみたら、病院で検査を薦められて
診断は肺結核でした。。
戦前は結核と言えば不治の病。命取りです。
しかし、ちょうどその頃結核に効く特効薬が認可されたばかりで
その新薬に救われて、10ヶ月の入院のあと社会復帰できることになった
そうです。パパ、ラッキー♪

当時、ラッキーじゃなかったのは母のほう。

ちょうどその結核騒ぎの前に父と母は出会っています。
母は高校を出たあと、日比谷にある商工会議所の受付で働いて
いて、新聞社勤めだった父が出入りしていて知り合ったそうです。
お付き合いが始まったと思ったら、彼氏が結核で隔離されました(笑)
しかも、安月給の平社員。死んじゃうかもしれないし・・・・

何しろ、条件としては最悪の婚約者だったと言っておりました。

それでも、不死鳥のごとく蘇った健一青年と寿美子嬢は昭和31年12月
九段下のある料亭でささやかな式を挙げ、結婚しました。

つづく






# by kana99 | 2015-10-18 03:52 | Life